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2004/08/31

1980年夏の日本アルプスと六甲山

 1980年春、浪人してなんとかかんとか運良く神戸大学に入学した。大学では、山岳部に入ることも考えたけれど、左手を傷めて、厳しいクライミングはできるようにならない気がしたのとアウトドア全般に色々やりたくなっていて、山ばかりになりそうな山岳部(伝統あるすばらしいクラブなのだけど)はやめて探検部とオリエンテーリング同好会に入部した。

その年の夏は、山岳部じゃないけれど、晴れて蓼科高原、南アルプス、北アルプス表銀座と連続で出かけた。都合3週間ほど山に入っていた。1年の浪人は思う以上に体力の低下を招いていたようで、帰ってきて疲労感がなかなか回復せず半病人という感じで1週間ほど過ごしていた。ハイキングの幹事をすることになった姉にコースの下見に無理やり六甲山をつきあわさせられた。有馬温泉から最高峰に抜ける割と楽なコースなのだけど体に力が入らず過労の恐ろしさを思い知ってしまった。コース後半の急な登りで、バケツで水をかぶった様に大量の汗をかいたら、何故かすっきりしてダルさも抜けてしまった。不思議。
しかし過労の恐ろしさみたいなものを感じて、これ以降、無理は恐くてできなくなった。ということで、限界の一歩手前で引く悪い(?)癖が何事にも出るようになってしまった。いーのか悪いのかは、相当先にならないと分からないでしょうね。

さて細かい状況なのだけれど

まずは、7月中旬蓼科高原であるが、これはオリエンテーリング同好会の合宿でまあ穏やかなものであった。ベースのテントを設営して。そこを起点にサブザックであちこちと出かけるものだった。ただし、歩きは高速。この合宿は、現地解散なのだが、高原から下山するについて客を乗せてきて空で帰るバスに交渉して、路線バスの運賃で乗せてもらうという珍しい経験をした。路線バスが本数非常に少ないからそうしたのだが路線バスより快適なのは言うまでもない。(こういうことはこれっきりない)
 梅雨が完全に明けた7月下旬に南アルプスへ出発した。これは母校高校山岳部の合宿へのOB参加である。同級のOBもあと二人参加した。参加といっても、同行するだけで、テントも食料もストーヴも自分達3人で持っており、現役のお世話になるわけではない。というか、この年の現役諸君は飯炊きが下手、他の段取りも良くなくてお世話になる気がしなかったのである。我々OBは、顧問の先生お二人のご飯も焚くことを宣言していた。顧問に芯のある飯を食べさせる訳にはいかない。案の定、朝真っ先にゴーゴー言い出すのは、我々OBのストーヴであった。やはり現役諸君のご飯には芯があった。 南アルプスの夏山というのに、我々OB3人はピッケルを持っていた。夏の南アルプスにピッケルは必要としないのが常識だ。道中会う人毎に不思議そうに見られた。南アルプスの森林地帯の登山道には倒木が多く、跨いだり、くぐったりするのだが、ピッケルは邪魔だ。大学受験によるブランクでの体力低下は、思っていたよりも激しいようで、かなりきつかった。これが以後になかなか回復しないダメージを体に残したのではないかと思う。
 なぜピッケルを持っていったかというと、北岳には小さめであるが雪渓がある。我々はそこでのグリセードすることを楽しみにしており、その為だけにピッケルを持っていたのだ。楽しくグリセードをして、(もちろん現役諸君にも体験してもらった)合宿は終わり、甲府に降りた。風呂に入って、寿司を食って、生ビールを飲んだ。

 帰宅して数日で今度は、北アルプス表銀座への出発。日数に余裕がなくて準備で相当バタバタした。何となく疲れが残ったままだった。

 この山行の目的は、
・北アルプス全山縦走を単独で行っている探検部の先輩(6回生)へ応援の食料を渡すこと
・先輩の彼女(探検部2回生)をエスコートして会わせること
の二つであった。

先輩の彼女は、先輩に会いたくて(補給荷上げは本当はオマケ)単独で計画を立てていたのだけれど、問題が二つあった。
・女性一人の単独行では荷揚げに問題があること。
・探検部員ではあるが彼女には山の経験はない。自力で計画が立てられない
ということで、3回生にサポートしてやってくれと頼まれたのであった。
まあ、どうせどっかに行くつもりであったので引き受けることにした訳だ。

立山連峰から縦走してくる先輩とは、槍の肩の小屋で待ち合わせということにはなっていた。
私が立てた計画は典型的なパターンだった。

■[第一日目] 中房温泉〜合戦小屋〜燕岳〜大天井ヒュッテ(7時間くらい)
■[第二日目] 大天井ヒュッテ〜東大天井岳〜西岳小屋〜槍ヶ岳〜殺生ヒュッテ(8時間くらい)
■[第三日目] 殺生〜槍沢小屋〜横尾(6時間くらい)
■ [第四日目]  横尾 ベースに 〜 涸沢 往復
■[第四日目] 横尾〜上高地(3時間くらい)〜下山

・先輩への補給物資は主に食料なのだが、それは名著「遊歩大全」の記述を取り入れた構成にした。まあ、乾物主体、軽さ追求である。シリアルと粉乳も沢山用意した。

 先輩の彼女と二人きりで同じテントで山行というのも気を使うので、もう一人探検部の1回生男子が同行するが、彼にも山の経験がない。初心者を二人エスコートするわけだが、表銀座はメジャーコース、小屋も多く、夏山期登山者は大変多い。道も良い。入門コースとしては適当だった。
しかし、私は夜行列車の疲れと蓼科から出発前のバタバタで体調不良になっていた。中房温泉からの標高差約1200mの長い登りは、先輩の為の荷揚げ品もありバックパックは重めで、結構辛かった。登行中中吐き気がし、冷や汗が流れていた。身体に力が入らない。天気も悪化して午後から稜線では雨になってきた。幕営で行く計画でテントを持っていたが、稜線は風雨が強く大天井荘泊まりに変更して大事を取った。翌日体調はややかなり回復して、予定通り槍の肩に無事ついたが、疲労感はかなりあり、自重して槍の頂上には登らず肩の小屋で他のメンバーの帰りをまった。先輩には無事会えて、目的は達した。先輩のハイパロンのカッパが駄目になっていたので私の新品の当時最新のゴアのカッパも貸してあげた。これ以降は稜線を通らないし、樹林帯を抜けていくので、別に持っている折り畳み傘とポンチョ(一人用のツエルト兼用)で私は問題ない。
殺生ヒュッテのテント場で幕営し、その翌日は、上高地まで下りず、手前の横尾で早泊まりとして、のんびりする計画だったが、体長不良と雨でペースが上がらず、予定を変更して更に手前の槍沢ロッジで早めに泊まることにした。槍沢ロッジで早泊まりとし、入浴してさっぱりしたので、大分調子が戻り、翌日は早々に横尾に入り、テント設営、涸沢往復となったが、私は自重してテントキーパーをすることにした。一日昼寝。翌日予定通り下山帰宅した。
 
 家に帰っても、体調はなかなか戻らなかった。身体がダルイ。食欲不振。しかし、夏休みの初めに姉に有馬から六甲へ抜ける道を同行して教えてくれるように頼まれていた。体調が悪くて出かける気にならなくて、一人でも行ける分かり易い道だから、一人で行けと改めて断わろうとしたのだが、姉は一人では嫌で聞いてくれなかった。六甲のこのコースで迷うとも思えないのだが、慎重なことを馬鹿にはできないし、母にも頼まれたので無理して同行した。有馬から極楽茶屋へ抜ける道だ。何度か通ったところだし、そう厳しい道ではないが、体調不良で冷や汗がドンドン出る。Tシャツが水をかぶった様に濡れたので、極楽茶屋に着く直前の休憩で脱いで絞るとコップに2杯がとこ絞れた。汗は止まり、シャツは乾き、気分は少し良くなり、無事下山した。帰りに三ノ宮で姉にエスカルゴとビーフストロガノフを食わせてもらったら、体調が一気に良くなってしまった。以後快調であった。不思議なものである。姉が連れて行ってくれた店は、老舗でエスカルゴが自慢で今も健在だ。だが、もうかれこれ15年くらい行ってない。
 私は、この年以降日本アルプスには行かなくなり、中低山、高原ハイキングくらいになってしまった。雪山は、ゲレンデスキーだけだ。何故なのか、自分でも良く分からない。多分気持ちと体力のズレになんか登山する気持ちがへこんでしまったのだと思う。
 夏が終わって、すぐに外洋レースに出る大型ヨットにクルー入門をした。もっともこれで以降海ばっかりの生活になってしまい探検部にも顔を出せなくなってしまうのだけれども。

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山岳部・アルバイト

高校に入ったら山岳部に入ろうと決めていた。
私が進学した県立高校は、学区内で唯一山岳部を持つ学校だった。そこならではのものは経験しておくべきだと思っていた。
父の蔵書にボーイスカウトの創設者であるベーデン=パウエル卿の著書があり、良く読んだ。影響されて私は野外での活動に小学校位から興味があった。
小学校の時にボーイスカウトに入りたかったが親の同意が得られずに断念していた。高校での山岳部への入部も強硬に反対されたが、今回ばかりは言われるままに従うことはできないと思っていた。押し切って入部はした。当然のことだが、親はお金は出してくれない。個人装備は、お小遣いやお年玉の貯金を当てることになった。装備にお金を使うのと、旅費に使うのとのバランスが難しい。装備だけ揃ってもどこへも行けないのではしょうがない。いろいろ苦労したのだけれど、1年生の夏山北アルプス合宿は、お金が工面できずに参加できなかった。なにせ強行入部してから日数がないからどうにもできなかった。   
 当時の田舎じゃ普段にアルバイトをすることはできない環境だった。いいアルバイト話もそうそうない。そんな中、正月の睨み鯛を焼く魚屋さんのアルバイトが見つかった。お隣のおじさんがご親戚に紹介してくれたのであった。このアルバイトは、寒風吹く中、12月の末五日間ほど屋外で冷凍の鯛を解凍、まだ半分凍っている状態のを鱗拭きし内臓と鰓を取る作業で、かなり厳しい。しかし、時給が普通のバイトの倍位貰えるので非常にありがたかった。
 昼食付きなのだが、魚屋だけに旨い魚のおかずが出る。この調理をしてくれるのが魚屋さんの娘さんなのだが、雑談していた時に、部の5年先輩ということが分かった。奇遇であった。
 このアルバイト代とお年玉と普段のお小遣いの節約で、バックパック、登山靴、ヤッケ、オーバーパンツ、オーバーミトン、ロングスパッツ、シュラフ、クランポンなど色々な装備が手に入り、旅費も捻出出来るようになった。
懐かしい思い出である。

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8月も終わり

今日で8月も終わりです。
子供時代は、お盆が過ぎて、ツクツクボーシが鳴き始めると
何となく憂鬱感を感じてました。
私は学校が嫌いだったんですよね。
理由は家から遠いから。
本格的な田舎の人には負けますが、幼稚園に2キロほど歩いて通うのは、かなり幼児
には辛かったんです。小学校も中学も遠かったです。
こういう影響って、長く残るもので、大学生とかになってもなんとなく憂鬱って
ことはありました。講義は休みでも、お盆休み以外は専攻実験で忙しく、夏休みも
毎日登校していたんですけどね。最近は歳も取ったということなのか、別に憂鬱感
を感じることはなくなってきました。社会人になって、東京勤務で、ツクツクボーシ
の声なんて聞く事の無い生活を何年も送ったせいかもしれません。

うちの長男は、私と違って幼稚園は大好きですね。バスで送迎ですしね。夏休みも、
どうして幼稚園お休みなのとうるさかったです。いよいよ明日から幼稚園はじまると
言う事で、彼は喜んでいます。

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2004/08/27

サマージャンボ

宝くじは、ジャンボだけ連番で50枚買う。
当選番号をさっと見て、今回も300円ばっかりね、と思って
いた。妻が昨日交換に行ったら、3000円が当っていた。
それなりに嬉しい。他の賞金と合わせて、家族で回転寿司位は
行けるではないか。
もちろん宝くじを買わなきゃ、その代金で回転寿司なら3回行ける
だろう。でも、楽しみ、というものを買っているわけだから、
まあ良しというところだろう。
いつまで買いつづけるか?って そりゃ3億が当るまででしょう。
買わない宝くじは当らないのである。

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28日夜の伊丹の花火でのメニュー

明日28日土曜日の夜は、伊丹の花火大会が予定されている。
先週の猪名川の花火に続いて、二週連続で我家の屋上から
見物の予定。
メニューをどうするか頭を悩ませていたが、一応決定した。
まあ、そういうほど大した内容ではない。

・豚ヤキソバ
・牛串焼き
・ホットドッグ か ハンバーガー
・コールスロー

飲みものは、小麦発泡酒でいってみるか、ということに
なっている。

ホットドッグの作り方だが、山バージョンだとソーセージは
コンソメスープで茹でる、その茹でている鍋の上に網を置き
そこにパンを置いて暖める。一気に仕上がる作り方である。
なお、茹でる時にコンソメスープは沸騰させてはいけない。
ソーセージを茹でたコンソメスープはもちろん飲む。
非常に効率的である。

だが、私は茹でソーセージより焼きソーセージを挟む方が好き
なので、家では焼くことにしたい。しかし、妻は茹で派だ。
ここは夫婦間の駆引きで決まるところだが、それは買い出しの
際にどんなソーセージを買ったか、というところに伏線がある
わけなので、買い出しを妻に任せきりにするわけにはいかない。
妻は、この事には多分気づかないので、私の優勢勝ちとなる
だろう。

ハンバーガーの場合、マックでダブルバーガーをテイクアウト
して、それにチーズ、レタス、トマトをがっぽり追加して
豪華版に改造するというズルをすることにしている。
これが、簡単でコストパフォーマンスが一番高い。
うちの小僧達は、フレンチフライが大好きなので、一緒に買う
ことになるだろう。こっちは、食べる前に、フライパンで炒って
クリスピー感を復活させることになるだろう。

コールスローは、冷蔵庫で一晩熟成させた方が美味いので、
今夜作る。レモン風味もポイントだ。

デザートは、アイスクリームかヨーグルトになるだろう。

台風の動向が心配である。

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2004/08/26

好物

私は、ほとんど嫌いなものがない。
子供の頃好きではなかったものも、大人になって美味しいと
思えるようになったものも多い。味の薄い食べ物、苦味の
ある食べ物にそういうものが多い。子供には、その味がわか
らなかったのだと思う。
実際学習する味というものは多いということである。
関西人であるが、納豆も美味しく頂ける。

特に嫌いなものがない一方、特に好物というものもそう
多くはない。
故郷の名物の駅前の下村加古川店の焼穴子。
下村のホームページ
焼穴子を使った押し寿司も大好きである。
誕生日のご馳走は必ず焼穴子の押し寿司にしてもらった。
そして、故郷加古川近辺のローカルな食べ物「かつめし」
である。

薄いビーフカツを切手より少し大きい一口サイズに切った
ものを、御皿に盛った少し堅めに焚いたご飯の上に並べ、
茹でキャベツを付け合わせ、カツの上にドミグラスベースの
ソースをたっぷりかけたものである。なお、お箸で食べる。
思い入れのある加古川人は多いらしく、検索すると相当数
ヒットする。

記憶の一番古い部分は、4〜5歳くらいつまり40年ほど前に
なる。初めて食べた時、ドミグラスソースなど普通の家の
食事では出てこない風味で衝撃的だった。
育ての母である神主さんの奥さんと近くの繁華街の呉服屋へ
和裁仕事の納品に出かけることがよくあった。最初に食べた
のは、その時だろう。
外食など滅多にせず、してもきつねうどんか中華蕎麦か冷麦
とかだったが、時々この「かつめし」を食べることができた。
私のご馳走はかつめしと三色アイスだった。どちらも家では
絶対に出てこないものだ。
ドミグラスの風味。アイスだって、普段は時々紙カップに
入った10円のラクトアイスがせいぜいのところが、ガラスの
容器にかっこよく球状に盛られ、しかも3種類のフレーバー
だ。私が一心に食べているのを優しい目で見つめる神主さん
の奥さんの顔を今も思い出す。彼女は何も注文していなか
った。私は半分に分けようとしたが、全部食べる様に言われ
たのを覚えている。再度促されて、幼児の私は全部たいらげた。
かつめしと3色アイスはうどんの何倍もの値段だったのでは
ないか、きっとそうだ。
「かつめし」を食べた日は、和裁の手間賃が入った日だった
のかなと今振返って思う。彼女は自分は食べずにその分で私
にかつめしと3色アイスを食べさせてくれたに違いない。

当時の店は移転などもしたが、うどん屋もラーメン屋も
かつめし屋も今も健在だ。3色アイスは今はメニューにない。
地元へ帰れば時々食べに行く、懐かしい味だ。だが当時ほど
には美味には感じない。店の味が変わったのか、私達が変
わったのか。
父は昔とは味が変わったと言う。

かつめしは、今は我家でも作る。家族には人気のメニューだ。
ソースは、缶詰のドミグラスをベースにして自分で作る、
味付けを決めるのは私だ。

※かつめしソースは、
 地元食品メーカーの前島食品
前島食品ホームページ
 が商品化して、かつめしセットも通販している。
 かつめしソースは、兵庫県エリアのスーパーには並ぶ様に
 なったらしい。

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2004/08/25

天体望遠鏡には思い出が深い

最初の望遠鏡は、私の育ての父の神主さんが中国に出征
していた時に使っていた双眼鏡である。
ただ、これで天体を観た記憶はない。そういう発想が
幼児にはなかったのだろう。
もっぱら双眼鏡を逆に覗いて、家の中を歩き回って変な
感覚を楽しむ遊びばかりだった。

1969年小学校の3年生の時だったと思う、口径8cmの
シングルレンズと紙筒がセットになったコルキットという
望遠鏡のキットを育ての母の神主さんの奥さんに買っても
らった。当時結構高価なものだったのじゃないかと思う。
もちろんアポロの月着陸に影響を受けていたのだ。

※ちなみにコルキットは形を変えて今も販売されている。
 昔よりずっと良いキットになっていて、値段も手頃
 それでいてきちんと見える良い科学教材である。
 小学校高学年なら問題無く完成させることができる。

オルビィス株式会社のホームページ ORBYS Inc.

シングルレンズの収差を緩和する為に焦点距離は長く、
筒長は1200mmもあった。もちろん手持ちはできないが、
架台がないので、窓の縁に座布団を置いてそこに望遠鏡を
載せて、もっぱら月を見ていた。
小学生には、月ぐらいしか天体は判別できないのだから
しょうがない。なんとかクレーターが見える位の見え味
だったと記憶している。自分で組み立てた望遠鏡だから
それで十分に楽しかった。

もっと本格的な望遠鏡が欲しかったのだが、そんな高価な
ものを買って貰える余裕は我家にはない。私は、それから
ずーっとお年玉と小遣いを使うのを我慢して貯め続けた。

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2004/08/24

共働きと育ての親

私の両親は、私が9歳になるまで共働きであった。二人とも私の故郷の
市の小学校の教師であった。教師は、女性が結婚、出産を経ても、継続
しやすい職業である。産休中は、臨時の講師(産休の裏付け と称す)が
仕事を受け継いでくれるからだ。この様な制度が昔から存在するのは
公立校の教師より他にないと思う。

母は、女学校を出るころ、日本は戦争で教師が不足していたのもあり、
師範学校の臨時教員養成コースへ進学し、戦中の17才から教師をして
いた。

父は、母より3歳年下だ。農家の次男坊であり、師範学校を出て、
しばらく教師をした後大学に編入学して卒業、その後再び教職についた。
16年前に小学校校長で退職した。

二人とも私の母校の教育学部の前身で学んだ同窓の先輩である。
特に母は、私の卒業した高校の前身である女学校の卒業生であるので
時々先輩風を吹かされた。

私には5歳年上の姉がいるが、乳児を預かる施設などない当時、
姉も私も乳児期から小学校の高学年になるまで、ご近所の個人のお宅で
預かっていただきお世話になった。
無償でのことだ。
最近はもちろんだが当時でもそうあることではないと思う。

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三つ子の魂百まで

私には、神主さんの奥さんに刷り込まれた幾つかの教え
戒めが非常に強く刻まれている。
一番強いものは、「負けるが勝ち」という言葉である。
幼子には
「暴力に対して暴力で応じてはならぬ。」
という戒めであり、
長じては
「短視的な勝ち負けが重要なのではなく、また個人的利益
を追うのではなく、
皆の為になる、長期的、最終的、実質的な利をめざせ」
という教訓である。
三つ子の魂百までというが、私には暴力的抑制が極めて
強く働く。
闘争心も抑制される。
傍目にはやる気のない奴に見えるかもしれない。
先の事まで考えすぎる。
行動的でないように見えるかもしれない。
人を押しのけてまで行動することはできない。

功罪あると思う。ただ今までの人生ではプラスが少し勝っていると思う。

自分の子供への躾は十分考えて行う必要があることを強く
意識している。

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