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2004/08/31

山岳部・アルバイト

高校に入ったら山岳部に入ろうと決めていた。
私が進学した県立高校は、学区内で唯一山岳部を持つ学校だった。そこならではのものは経験しておくべきだと思っていた。
父の蔵書にボーイスカウトの創設者であるベーデン=パウエル卿の著書があり、良く読んだ。影響されて私は野外での活動に小学校位から興味があった。
小学校の時にボーイスカウトに入りたかったが親の同意が得られずに断念していた。高校での山岳部への入部も強硬に反対されたが、今回ばかりは言われるままに従うことはできないと思っていた。押し切って入部はした。当然のことだが、親はお金は出してくれない。個人装備は、お小遣いやお年玉の貯金を当てることになった。装備にお金を使うのと、旅費に使うのとのバランスが難しい。装備だけ揃ってもどこへも行けないのではしょうがない。いろいろ苦労したのだけれど、1年生の夏山北アルプス合宿は、お金が工面できずに参加できなかった。なにせ強行入部してから日数がないからどうにもできなかった。   
 当時の田舎じゃ普段にアルバイトをすることはできない環境だった。いいアルバイト話もそうそうない。そんな中、正月の睨み鯛を焼く魚屋さんのアルバイトが見つかった。お隣のおじさんがご親戚に紹介してくれたのであった。このアルバイトは、寒風吹く中、12月の末五日間ほど屋外で冷凍の鯛を解凍、まだ半分凍っている状態のを鱗拭きし内臓と鰓を取る作業で、かなり厳しい。しかし、時給が普通のバイトの倍位貰えるので非常にありがたかった。
 昼食付きなのだが、魚屋だけに旨い魚のおかずが出る。この調理をしてくれるのが魚屋さんの娘さんなのだが、雑談していた時に、部の5年先輩ということが分かった。奇遇であった。
 このアルバイト代とお年玉と普段のお小遣いの節約で、バックパック、登山靴、ヤッケ、オーバーパンツ、オーバーミトン、ロングスパッツ、シュラフ、クランポンなど色々な装備が手に入り、旅費も捻出出来るようになった。
懐かしい思い出である。

山岳部は危険だという先入観のある両親は反対した。 実は、なんでも反対する人達なのだ。これまでは言う事を きいていたのだが、これからは、そうそうきくつもりは なかった。ただ、押し切ってというのは、まずいのでうや むやにしておくことにした。 山岳部は、運動部でもなければ文化部でもない体質を持つ ところだった。部員には変わった人が多く、伝説のOBも 多かった。 勝ち負けといった競技性はない。自分で考え、自分で決め て責任を持つという雰囲気があった。 ここを境にだんだん親は干渉しなくなった。 精神力、体力、知力が必要だ。もちろんお金もあったほう が良い。 部にザックや寝袋などの装備はあったのだが、基本的な 個人装備は自前で揃えたい。それには、そこそこお金が かかる。私は、中学2年の時から冬休みに正月の「睨み鯛」 を焼くアルバイトをしていた。結構キツイ仕事だが、バイト 代がすごく良かった。スーパー等のバイトの1.5倍くらいの 日当だった。しかも昼飯付き、魚屋だけに美味い魚が がっぽり出る。高校生になってから分かったのだが、僕ら に昼飯を作ってくれるのは山岳部の5期上の娘さんなのだ。 その貯金でイタリア製のノルディカの靴、フランス製の ミレーのザック、ドームテント、12本爪クランポン、ゴア テックスの雨具を購入した。金が無いくせに買うとなると 良い物を買っていた。この当時のミレーのザックは、 フランス製で高かった。今は、どのメーカーの物もかなり 安くなっている。 靴も高価なものだ。荷物と体重合わせると100キロくらいの 重量がかかる代物だけに、妥協は許されない。 雨具は消耗品だし、クランポンは後輩に譲ったが、他の装備 は30年近く経って時代遅れだが健在である。

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