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2008/01/16

ナンガパルバット ルパール

 パタゴニアのアンバサダーのスティーブ・ハウス氏のナンガ・パルバット登頂の講演がパタゴニアのディーラー向け見本市の後行われるとの話題を読みました。
 「ナンガパルバット ルパール」このキーワードには刺激されるものがあり、パタゴニアのWEBのハウス氏の登攀記を読みました。久しぶりに非常に刺激を受け登山史や登攀記録ばかり読んでいた高校生当時の記憶が熱く甦りました。

 仕事仲間のM川さんには、「オタクすぎて、話に誰も乗ってけませんよ」と忠告をされたのですが、今も私の記憶に残る、因縁が連鎖していくクライミング鉄の時代のドラマチックな流れを思い出してみたいと思います。

 私は、1970年代中盤、中学2年生頃から、近所の低山彷徨から登山を始めて、高校で親の強い反対を押し切って山岳部に入りました。まあ、これで親離れできたというか、良い子から勝手者に変身して、以降親に心配ばかりかける様になります。
当然というか、先鋭的なクライミングに憧れていました。公式(高体連)には高校生には部活でのクライミングは禁止されてました。もちろんみんな部活ではなく行ってましたが(笑)、某神戸の高校生が六甲の氷瀑で落ちて、骨盤骨折の大怪我をして大問題になり監視の目は厳しくなりました。(実はガソリンストーブも禁止で部活では灯油ストーブを使ってました。)
 自宅は、100坪の敷地を高さ2mのブロック塀が囲んでおり、ここでもっぱらトレーニングに励み(塀なのでハングはないわけですけど)、ビッグウォールでのビバークに慣れるべく塀にハンモックとブランコを吊ってそこで一晩過ごすという様なこともよくやりました。そんな高校生の私にとって憧れは、東部アルプス6級の伝説的クライマー達でありました。リカルド=カシン、ヘルマン=ブール、ワルテル=ボナッティ、ガストン=レビュファ、そして古今東西を通じて最強のクライマーと言われるボナッティに後継者として指名されたクライマー当時驚異的な登攀を続けていたラインホルト=メスナーでした。

注) ヘルマン=ブールとレビュファ以外現在もご存命です。カシン氏は1/2で99歳。
注) クリーンクライミングの最初の提唱者かつ実行者はボナッティです。アメリカ西海岸のクライマーが提唱者的に扱われることが多いのと、米国人クライマーがそのときにボナッティに言及しないのが、ボナッティにはすごく気に障っているように思えます。

 そして同じくリアルタイムで驚くべき単独行を行う別格の存在として、私と同じ兵庫県出身で日本人初のエベレストサミッター植村直己氏でありました。
 そんな私でありますが、その後クライミングを究めていくことにはなりません。ちょっとした事故で左手の親指の関節と靭帯を傷めて、時折不意にかなり痛んで一時的にうまく動かせなくなることが起こったからです。今も時折起こります。加重をかけると起こりやすくなります。これでは自分の限界ライン一杯の登攀を行うことはリスクが高すぎます。それで、いろんなアウトドアアクテビティを経験してみることにして大学では山岳部(伝統あるすばらしいクラブでしたが)には入らず、探検部に入りました。その後、外洋ヨットレース、スキーに興味が移って行き、探検部(元々探検部は、部員各自が勝手にいろいろ活動する体質で部としての全体合宿とかないところでした)にも顔を出さなくなり、山にも登らなくなりました。

 さて、「ナンガパルバット ルパール」このキーワードが私に呼び覚まさせる事なのですが、私と同時代の山屋の方々は良くご存知のことであろうと思いますが、以下に述べてみます。

(魔の山)

 カラコルムの8125mのナンガ・パルバットは魔の山と言われます。ヒマラヤ・カラコルム山域で最も血に飢えた山と言われており、ドイツ系の登山隊を中心に1953年に初登頂されるまでに20数人の命を奪っています。

(アルプスの魔の山)

 魔の山というと、最も有名なのがアイガー北壁でしょう。「ザ・ノース・フェイス」であります。(笑) (日本では谷川岳ですが、谷川は死亡者数では世界一です。)実は、ヨーロッパの魔の山とカラコルムの魔の山とは浅からず因縁が繋がってます。

 登攀の記述的困難さではアイガー北壁がアルプス最難関というわけではありません。最も困難なのはグラン・カピュサンという意見が多いのではないかと私は思います。
 ですが、アイガー北壁は天候の急変や落石、雪崩等の危険が大きく、夏でも壁は凍結します。しかし何より山麓のホテルの真正面に壁があり、悪天候でない限りクライマー達の動きの全てが観察できます。もちろん、遭難した姿も目撃することになります。観光用の大型双眼鏡も設置されています。

 アイガー北壁初挑戦は、ドイツ人の二人によっておこなわれました。1935年に壁に向かった彼らは遭難し戻ってきませんでした。彼らの母国ドイツは国威をかけて捜索することにし、当時最も偉大な飛行家であったウーデットが岩壁すれすれに飛ぶ大胆不敵な捜索を行い、一人が壁の中で立ったまま凍死しているのを発見しました。以後この地点は「死のビバーク」と呼ばれることになります。

  アイガー北壁の登攀の歴史の中で最も悲劇的な事件は翌年の1936年に起きます。ドイツ人2人・オーストリア2人の混成パーテイの登攀です。元々別々のパーティであるドイツ人のアンドレアス・ヒンターシュトイサーとトニー・クルツのパーティとオーストリア人のエディー・ライナーとヴィリー・アンゲラーの2パーティが登攀中にルートが一緒になり錯綜することからその場で合同で登攀することになったのでした。マルチピッチでクライミングする方はよくご存知の通り、クライミングは二人が最も効率がよく、人数が増えると登るのに時間が掛かることになります。
ボナッティの「フルネイの悲劇」も登攀開始してから合同して登ることになったパーティでありました。こういうパーティ合同は良くないのでしょう。

 ヒンターシュトイサーが難所を避けて左へトラバース(壁を横断する事)するルートを開拓しました。このいわゆる振り子トラバースする場所は後にヒンターシュトイサー・トラバースと呼ばれ有名になります。ヒンターシュトイサー・トラバースは右から左への動きで登る場合は進めますが、左から右へ下って戻るには登る動きの際にザイルを残置しないと引き返すのは実は無理になる場所です。しかし、彼らはザイルを回収してしまいます。引き返すことなど頭になかったからでしょう。もっとも予備もあるわけでもなかったでしょう。そして、初めてのルートですからザイルを回収すると引き返せなくなるとは考えなかったのでしょう。
 しかし、この地点は引き返し不能点で、ここを越えると前進しかありえません。

 さて、悲劇の始まりです。

 アンゲラーが落石で負傷します。その上天候が悪化して来たために退却と決めます。しかし、ヒンターシュトイサー・トラバースで逆に進むことが不可能であることに気付いたのです。やむなく彼らは壁の中に開いている坑道の穴のストーレン・ロッホ(山をくり貫いて作った登山鉄道のトンネルの工事時に削った岩を捨てた穴)目指して退却することにします。心配して見守っていたスイスのガイドのアルベルト・フォン・アルメンが穴の出口まで行って呼びかけました。「もうすぐ」と力強い返事がかなり間近に聞こえました。アルメンは安心してお茶を沸かして待っていました。ところが誰も現れません。アルメンは再び坑道の穴から呼びかけました。クルツから恐ろしい報告が届きました。

「ヒンターシュトイサーは墜落した。」
「ライナーはザイルに引きずり上げられて、そこで凍死した。」
「アンゲラーはザイルで首をつられて死んだ。」
「生きているのは俺だけでアブミの上で動けない。」

アルメンは救出の為に他のガイドも呼んで来ましたが、その日はもう遅く、救出活動はできずクルツは吹雪の中で一晩放置されます。翌日クルツはまだ生きていましたが、当時のスイスのガイド達にはドイツ人やオーストリア人の様にアクロバチックな岩壁登攀ができる者はおらず、助けに登れる者はいませんでした。下降用のザイルをロケットでクルツに渡そうとしてもオーバーハングの上にクルツがいるので姿すら見えずどうしようもありません。
 ガイド達はクルツにアンゲラーの所まで降りてアンゲラーの遺体をザイルから切り離しザイルをほぐしてつなぎ合わせて下まで下ろすように指示しました。クルツは凍傷で左腕をやられて使えずアブミに揺られて雪崩や落石の落ちてくる中で、この大仕事を5時間も掛けてやりとげます。ガイド達は下りて来たほぐしたザイルをつないだ紐に下降用のザイルをつないでクルツに引き上げさせました。しかしザイル一本では足りず2本目を結び付けました。クルツがゆっくりと下降して来てガイド達の目にも入るようになりました。もう少しのところでザイルに通していたカラビナにザイルをつないだ結び目がひっかかってしまいます。クルツはカラビナを開いて結び目を通そうとしたのですが、片腕しかきかず体力も使い果たしておりガイド達の声援も虚しく、「駄目だ!」とつぶやいて力尽きます。
 この血塗られた壁は、その後国の威信をかけて雪辱に燃える4人のドイツ・オーストリア混成パーティによって1938年に完登されます。
この中にハインリッヒ・ハラーがいました。(彼の著作アイガー北壁初登攀記「白い蜘蛛」が有名)


(魔の山 ナンガ・パルバートへの挑戦)

 ナンガ・パルバットへ最初に挑戦したのは英国の登山家ママリー(マッターホルンのツムット稜の初登攀者)で1895年のことです。ママリーは7000m近くまで到達しましたが、悪天候のためにそれ以上の登攀を一旦諦めました。しかし、別のルートを探しに行って二度と戻りませんでした。ナンガ・パルバットの最初の犠牲者です。

 1934年にメルクールの率いるドイツ隊は頂上アタック直前に天候が急変し退却を決意します。それは悲惨な結末となります。下のキャンプからは悪天候で降下できない隊員が何日も助けを呼ぶ声が聞こえたものの、救助は降り続く新雪にはばまれ、結局3人のアルピニストと6人の高所ポーターが食料と燃料切れで帰らぬ人となりました。

  1937年のドイツ隊は第4キャンプを雪崩で吹き飛ばされ、7人のアルピニストと9人の高所ポーターの命が奪われました。

 1939年のドイツ隊は第二次大戦の勃発によって、中断し、英国軍にインドで抑留されてしまいました。この隊のメンバーにアイガー北壁初登のメンバーだったハインリッヒ・ハラーがいました。ハラーは一人の相棒と脱走して、チベット高原を食料も装備も不足したまま生死の境をさまよいながら逃避行を続け、チベットに入り、ダライラマの家庭教師となり居住を認められるわけです。これが「セブン イヤーズ イン チベット」という著作を生み、ブラッド=ピット主演で映画化されたのでご存知の方も多いでしょう。ハラーはその後ナンガ・パルバットに挑戦することはありませんでした。



(アイガー北壁初登)

 こうしてドイツ・オーストリア系アルピニストにとってナンガ・パルバットは絶対に登らなければならない因縁の山となります。
 1953年にヘルリヒコッファーの率いるドイツ・オーストリア遠征隊がナンガ・パルバットに挑戦しました。この時も悪天候にはばまれ敗色濃くなって来ます。悪天候で最終のアタックキャンプを思った場所に作ることができないまま時間切れを迎えます。そこに超人登場です。ヘルリヒコッファー隊長(彼はアルピニストではなく、プロデューサー的な人です)の退却命令を無視してオーストリアの超人アルピニスト、ヘルマン・ブールが単身頂上を目指して7000mにも到達していない低いキャンプから出発。単独で一気に1000m以上もの高度差を登り詰め8000m峰に登頂するという前代未聞の登攀をやってのけます。(単独無酸素)
 ブールは登頂の証拠として頂上にピッケルを突き刺し、写真を撮りました。しかし、なんと頂上にピッケルを登頂の証拠として残します。(忘れたという話もあります)彼は、スキーストックとアイゼンだけで下山します。もちろん陽のあるうちに降りきれません。適当なビバークできる場所も見つけることができず、十分なビレイ機材も持っていなかったので、岩を抱きながら立ったまま夜を過ごし、なんとか生還します。当然無事では済まず、ブールは凍傷で足の指を何本か失ってしまいます。
 その4年後、ブールはブロード・ピーク初登頂のあとのチョゴリザへの連続登攀中雪庇の崩壊に巻き込まれて遭難死します。

注) 頂上に残したピッケルは、日本人登山家の池田壮彦氏によって発見され、製造元フルプメス社でブールの登山隊用の特製品と確認。亡夫の登頂を支えたピッケルに対面した妻のオイゲニーは「奇跡のようだ。私が手にした一番大切なもの」と感激した。なお、ピッケルはオーストリアの山岳博物館に収められています。(行くことがあれば是非見たいですね)
注) ヘルマン・ブールの著作「八千米の上と下」は名著です。残念ながら新刊で入手不能です。元々が大型本なので古書でも高価です。図書館にあれば、是非借りて読みましょう。

(超人メスナーの悲劇)

1970年に初登の時と同じくドイツ人ヘルリヒコッファーが再びナンガ・パルバットへの遠征隊を組織します。そこに当時新進気鋭のラインホルト=メスナーが弟ギュンターと共に参加します。今回はルパール壁と呼ばれる南壁からの挑戦です。

 ルパール壁は高さ4500mにも及ぶ世界最大級の大岩壁です。(ハウス氏によると4100m)今回も悪天候で壁を完登するのは危うい状態になりました。そして、この時ブールの様に、隊長の退却命令を無視してラインホルト・メスナーが最終キャンプから一人で頂上を目指しました。隊長はヘルリヒコッファー、同じく超人的登山家の単独アタックとヘルマン・ブールの劇的な登頂を想起させます。しかし、今回は単独アタックとはなりませんでした。ラインホルト・メスナーの弟のギュンター・メスナーが独断で兄の後を追って登って来たのです。追い付かれたラインホルトは驚愕しましたが、頂上を前にしたアルピニストの気持ちを思えば弟に引き返せとは言えません。メスナー兄弟は二人で頂上に到達します。心配された通りというべきかギュンターには兄に追い付くために無茶なペースで登った影響が出て来ます。高所であまりに速く高度をかせぎ過ぎたためにギュンターは疲労困憊して限界に達したのです。ギュンターはザイルで確保されずに下山する自信がないと言います。しかし、メスナー兄弟はそもそも単独登攀ですのでザイルは持って来ていません。メスナー兄弟は頂上直下でアルミ箔の緊急用シートだけでラインホルトが後述しているのですが、物を考えることもできないほど寒い夜を過ごします。翌日天候が持ち直したので第二登隊が登って来ました。しかし、ルートが違っていて頂上直下にいたメスナー兄弟と第二登隊の間は谷でへだたれていました。8000mを超えた高所では肉声での意思の疎通は当然難しく、第二登隊に「ザイルが欲しい」ということは遂に伝わりませんでした。第二登隊は「大丈夫か?」と尋ねて、ラインホルトが「(我々の健康状態は)大丈夫だ。」と答えたのに安心して、そのまま頂上に向かってしまいます。メスナー兄弟は仕方なくルパール壁を降下するのは諦め、反対側のディアミール側に下山することにします。そちらの方が簡単に見えたからです。しかしそれは前代未聞の8000m峰の横断ということになります。驚くべきことにそれは成し遂げられます。もう危険な箇所はほぼないという所まで下山した頃に、ラインホルトが気づくとギュンターが遅れて姿が見えません。声は聞こえていたようです。しかし、その時に氷雪崩が発生し、おそらくギュンターは何トンもの氷の下敷きになってしまったのでしょう、行方不明になります。ラインホルトは3日間飲まず食わず、5日間は水は飲めたものの食料はなく、凍傷に足をやられ最後は這ってディアミール谷にある村にたどり着きます。
 このメスナーの信じ難い登攀を世界の登山家達が知った時、多くの人が「奇跡だ!」と評しました。しかし、「僕は奇跡なんか信じない」とメスナーは書いています。(その後2005年の夏にギュンターの遺体の一部が発見されたという報道がありました。)
 この登攀が彼のその後に大きく影響をしたのは間違いないと思います。
 私は、ルパール壁の話題となった際には、この山の因縁とメスナーの悲劇、その超人的登攀について思い出さざるを得ないのです。そして、新ルートで登攀してメスナールートを下降する計画を実行したハウス氏の思いや、それを知ったメスナーの思いについて考えてしまうのです。

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コメント

カノープスです
私はそんなに登山には興味が無かったのですが、一気に読んでしまいました。大変面白かったです。一つ一つの山には先人の汗や犠牲があったことを改めて知りました。ありがとうございました。文章も上手いですね。

投稿: カノープス | 2008/01/19 19:39

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