なんで この写真?
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先日の芦生は、雨降りの中の行動となりました。
しかし、良いフィールドでは、雨降りもまた良しなのであります。
でも、昔は違いました。
カッパは、今のような通湿防水性能なんかないハイパロンで、行動すると雨で濡れているのか蒸れで濡れているのか区別できなくなる時代。カッパ着ても夏の北アルプスなど高所で行動するのは、その後の冷えや風を考えると危険、アンダーウェアも今の様な高性能なものが行き渡っていなかったな時代。
実際、夏山での疲労凍死は毎年といってよいくらい起こっていたと記憶しています。
日程を気にせずにフィールドに居られた身分だった頃は、雨降りは停滞してました。停滞は、飯は極力食わないし(でないと食糧切れで予定の行動が不能になる)、そのため寝ているだけか、本を読んでいるだけ(結構ボーっとしてたりもする)になるんだけど、好んでしているとは言えキツイ行動からの解放感でなんとなく幸せ感ありました。
だから、テントに雨降り音がし始めると、気分は悪くなかったです。
「あー しゃーないなぁ 停滞かなぁ」
未だにこの気分は抜けない(根が横着者なので)のですが、
今はそうそう停滞をしていられる身分ではないので、よっぽどじゃなきゃ動きます。
でもカッパを始めとして装備が良くなったので、雨中行進もまた楽しいのでありますよね。雨の行動の良さも分かってきてますしね。
いろんな所で良い事を見つける出すのって大事であります。
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さて、今日は古い記憶に深く潜行してみようと思います。(^_^;)
初めてのスキー。これは、小学校2年生の冬でありましたね。40年も前の話になってしまうところが恐ろしいです。
叔父が狩猟をする人で、その鳥撃ちに同い年の従姉妹と一緒にくっついて行ったのでありました。兵庫県北部の積雪のある里山エリアで狩猟が行われるわけですが、もちろん、小学校2年生では、ハンターと一緒に行動するわけにはいきません。なので、我々は、地元の漁師さんの家でスキーを借りて、果樹園の斜面で一日雪遊びをしていることになりました。
用具ですが、板は木製で長い、靴はゴム長、ビンディングはカンダハー。当時既に古い感じの用具でした。1960年代末の当時、プラブーツが出てきていたので、既に過去の用具だったと思います。
まあ、最近の方には何のこと?でありましょうね。
ヤマレコ でのカンダハーの記事
上のサイトで画像で見るのが一番良く分かりますね。
テレマーク用ビンディングの原型だってことが分かると思います。
カンダハーというコースのあるスキー場も時々あるので、聞いたことある名前かもしれないです。(野沢にはありますよね)
いうまでもなく、登山靴ましてやゴム長で滑るのはとっても難しいです。前後左右のサポートが今のプラスチックのスキー靴とは比べものにならないくらい無い。常に正しい位置に乗れてないと転倒。
これで、一日果樹園の斜面を階段登行やカニ足で登っては、滑りを繰り返す。ひたすら直滑降、だんだん上手になる。そのうちなんとなく曲がるようになる。飽きませんでしたねぇ。
というわけで、私のスキー初体験は、テレマーク系で滑った場所もゲレンデ外ってことでバックカントリー。将来を暗示している様なスタートでありますね。
その次は、我が家は共働きだったので、日中お世話になっていた神主さんのお家のおにーさんに連れて行ってもらった奥神鍋スキー場。この時は、木製の板、皮のスキー靴(皮の二重靴、編み上げ)、ビンディングはマーカーだったと記憶しています。
その後、小学4年生の時に、地元の市の体育活動でスキー旅行の募集があり、それに参加します。そのときは、前日前夜と結構な雨、翌日は雪に変わっていましたが、積雪量は少なく滑るのにギリギリ、そのうち小雨に変わりだし、早めの撤収となって十分に滑ることができなかった。
この時も、木製の板、皮のスキー靴(皮の二重靴、編み上げ)、ビンディングはマーカーだったと記憶しています。
この段階まで、レッスンを受けた事もなく、スキーを履いて歩いて登って、滑り降りるという域を出ていません。まあ直滑降は上手くなったかもしれません。
この後、空白期間が続きます。
再びスキーを履くのは、高校の山岳部においてです。毎年冬休みに入るとすぐにスキー合宿がありました。県内の高校山岳部の合同行事でありました。兵庫県北部の代表的スキー場鉢伏高原の山麓に丹戸という集落があり、そこに我々の定宿の民宿がありました。日程も毎年固定なので、OB達もやって来ます。スキーも行いますが、氷ノ山にも登ります。氷ノ山登山のルートは東尾根でありました。これが毎冬の定番行事。スキーの用具は、民宿で借りてました。この頃は、グラスファイバーの板、プラブーツ、ステップインのビンディングになってました。まあ、1970年代後半ですので。
浪人期間1年は、当然ですけどお休み。
大学に合格した春は、先に大学に入っていた山岳部の同期とスキーに出かけることにしました。合否が出る前に日程は決めて予約なんかはしてました(^_^;)。この時に用具を揃えることにしました。
スキー歴上最初の用具は、山スキーのセットでした。ステップソールの板、ビネルサの山スキー用ビンディング(当時最新で山スキー用としては初のセーフティ機能装備。登山靴もアルペンのブーツも取り付けられる)、登山靴は持っていたので、アルペン用のブーツを購入。春の栂池スキー場をステップソール板特有の唸り音をさせながら、自己流ボーゲンで滑りまくりました。ひたすら楽しかったです。
これらが、ちょっと変わっているかもしれないですけども、私のスキーの下地を固めたものだと言えます。
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パタゴニアという名前を明確に意識したのは、1978年のこと。
地理上の名前としては、もっと前から知っていた気がするが、具体的な中身の一部でも知ったという意味においてであります。
1978年というと私は高校3年生。受験を前にしつつも全然勉強をせず、と言ってマメに山にも出かけるわけにもいかず(と言いつつ、夏休みに槍穂に行きましたけど)、山や自然に関する本、ノンフィクション分野の本を読むことが多かった記憶があります。
勉強しないからグラマーで0点を取るなんていう驚異的な記録を残したりしてました。まー当然のごとく浪人することになるわけですけど(^_^;)
それは、1冊の本によってもたらされました。
高木正孝 著
パタゴニア探検記
岩波新書の青本です。
1957年11月~1958年3月に行われた、「日本(神戸大学山岳会)・チリ合同パタゴニア・アンデス探検」 の高木先生の記録。
高木先生は、旧制成蹊高校の出身で、成蹊高校の山荘(虹芝寮 昭和7年10月竣工)のある谷川岳特に堅炭岩エリアでの登攀ルートの開拓にも名前が残っており、日本のマナスル遠征の主要メンバーでもありました。マナスルから戻られて、神戸大学文理学部助教授に就任され社会心理学を担当し、神戸大学山岳部部長でありました。
この探検は、パタゴニア北部氷陸地帯の南部の最高峰で未踏峰のアレナーレス山(3437m)及びその近くの3000m級処女峰の登頂と北部氷陸地帯の東から太平洋岸までの横断行 を目的とするものでした。
当時、まだパタゴニアエリアのエクスペディションはそれほど行われておらず、地図も未整備だったようです。標高は低いですが、南緯が高く気象は、厳しく氷河もあるエリアです。
日本としては初ですし、世界的にも初期の探査・探検・登攀でありました。
高木先生は、この遠征の後、1962年の6月からに「神戸大学南太平洋諸島学術調査」に参加されますが、7月に洋上の船上から行方不明となります。誠に謎が残るわけですが、大学、日本の山岳界ともに大きな損失でありました。
なかなかの名著であると思います。
私は、この本を読んだ2年後に神戸大学に入学しました。しかし山岳部に入ることはありませんでした。登山だけでなく、色々なことをしてみたいと考えていたからです。そこで、山岳部から山以外での活動もと考える人達が、分派して設立したという経緯のある探検部に入ることにしました。山岳部は体育会ですが、探検部は文化部に属しており、そのポジションも気に入ったからです。であるが故にやはり自由なクラブで、部員は各自自分の興味の趣くままに活動していました。パーティ行動でないと不可能な活動(例えば、ケービングやラフティング)だけ有志が集合する様なところがありました。
もちろん、私も勝手にいろいろ始め、2年生の秋からは、外洋レーシングヨット(トーゴ:70年代後半~80年代末の日本を代表して国際レースに遠征したグランプリレーサー)のクルーになり、週の半分はヨットハーバーで過ごす様になり、学校に行く日は、講義出席や専攻実験で忙しく探検部には顔を出さないようになりました。(卒業自体ヒヤヒヤものだった)
こういった、学生時代の私を形成し、今に繋がる一つの要素になった本であると思っています。
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仕事仲間と二十数年ぶり位に芦生の森に行ってきました。
以前に行ったのは、学生の頃、京大農学部林産の友人に無理やり連行された様なものでした。今の様に有名でもなかったと思うし、本人乗り気でなかったので当時の記憶はほとんどありません。
今回のプランは
初日:京大事務所から林道を通って けやき峠-下谷を経て 長治谷作業所へ進出、テント泊
歩行時間約4時間
翌日:上谷から杉尾峠-横山峠を経て 出発地点へ戻る 歩行時間約5時間
というラウンドするプラン
29日午前7時、雨降りの中、阪急箕面駅で集合している仲間を拾って出撃。
天気予報によると、明日までに100mm級の豪雨の可能性もあるということで、道中プラン変更を検討しながら一路美山へ。
美山の道の駅を偵察、私は巻寿司とイナリのセット購入。出発前に食う予定。
予定より早く10時半に芦生の公民館駐車場着
討議の結果、豪雨の可能性ありということで、トロッコ道往復ディハイクに変更とする。
沢に絡むルートで豪雨の可能性ありではいたし方なし。
しかし、豪雨となると危険なのではあるが、雨の森林歩きはまた楽しなのである。
それに山歩きは、全天候行動な遊びでもあります。
雨これまた好い日 ってことです。
準備完了!
さて、トロッコ道の始まりの鉄橋
渡るぜ!
灰野谷 綺麗です。
結構巨木 (巨木を撮影する時は、大きさが分かるように人とか一緒に写すのが基本)
トロッコ道は崩壊箇所多数。
渡渉になります。
結構でっかい蝦蟇
行動食補給中 (大事です)
雨の降りもそこそこな勢いなんで、写真をマメには撮れなかったので、まあこんなとこです。
2時間ほど進んで、ちょっと雨中では渡るリスクが高いトロッコ道崩壊箇所で引き返しました。戻る途中の感じの良い河畔で紅茶を沸かしてティータイム、結構満足で駐車場へ帰着。
日吉ダムの温泉施設へ向け出発。
温泉と食事で大満足でした。
ですが、
芦生テント泊・上谷リベンジ決定!
元々泊まりでの遊びのつもりだったので、素直に家に帰るのもナァ、ってことで大江山の避難小屋(林道を車で行ける)に行って泊まって小宴会でもしようという話になって、進撃するのですが、誰も行ったことがなく真っ暗な中で、林道の分岐が見つけられず、敗退。深夜に家に戻る結末になりました。
てことで、
大江山避難小屋リベンジも決定!
いや別に宴会がやりたいのではなく、来る積雪期にお近く雪山登山やお近くBCをするための偵察という理由が大ってことです。
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