パタゴニア
パタゴニアという名前を明確に意識したのは、1978年のこと。
地理上の名前としては、もっと前から知っていた気がするが、具体的な中身の一部でも知ったという意味においてであります。
1978年というと私は高校3年生。受験を前にしつつも全然勉強をせず、と言ってマメに山にも出かけるわけにもいかず(と言いつつ、夏休みに槍穂に行きましたけど)、山や自然に関する本、ノンフィクション分野の本を読むことが多かった記憶があります。
勉強しないからグラマーで0点を取るなんていう驚異的な記録を残したりしてました。まー当然のごとく浪人することになるわけですけど(^_^;)
それは、1冊の本によってもたらされました。
高木正孝 著
パタゴニア探検記
岩波新書の青本です。
1957年11月~1958年3月に行われた、「日本(神戸大学山岳会)・チリ合同パタゴニア・アンデス探検」 の高木先生の記録。
高木先生は、旧制成蹊高校の出身で、成蹊高校の山荘(虹芝寮 昭和7年10月竣工)のある谷川岳特に堅炭岩エリアでの登攀ルートの開拓にも名前が残っており、日本のマナスル遠征の主要メンバーでもありました。マナスルから戻られて、神戸大学文理学部助教授に就任され社会心理学を担当し、神戸大学山岳部部長でありました。
この探検は、パタゴニア北部氷陸地帯の南部の最高峰で未踏峰のアレナーレス山(3437m)及びその近くの3000m級処女峰の登頂と北部氷陸地帯の東から太平洋岸までの横断行 を目的とするものでした。
当時、まだパタゴニアエリアのエクスペディションはそれほど行われておらず、地図も未整備だったようです。標高は低いですが、南緯が高く気象は、厳しく氷河もあるエリアです。
日本としては初ですし、世界的にも初期の探査・探検・登攀でありました。
高木先生は、この遠征の後、1962年の6月からに「神戸大学南太平洋諸島学術調査」に参加されますが、7月に洋上の船上から行方不明となります。誠に謎が残るわけですが、大学、日本の山岳界ともに大きな損失でありました。
なかなかの名著であると思います。
私は、この本を読んだ2年後に神戸大学に入学しました。しかし山岳部に入ることはありませんでした。登山だけでなく、色々なことをしてみたいと考えていたからです。そこで、山岳部から山以外での活動もと考える人達が、分派して設立したという経緯のある探検部に入ることにしました。山岳部は体育会ですが、探検部は文化部に属しており、そのポジションも気に入ったからです。であるが故にやはり自由なクラブで、部員は各自自分の興味の趣くままに活動していました。パーティ行動でないと不可能な活動(例えば、ケービングやラフティング)だけ有志が集合する様なところがありました。
もちろん、私も勝手にいろいろ始め、2年生の秋からは、外洋レーシングヨット(トーゴ:70年代後半~80年代末の日本を代表して国際レースに遠征したグランプリレーサー)のクルーになり、週の半分はヨットハーバーで過ごす様になり、学校に行く日は、講義出席や専攻実験で忙しく探検部には顔を出さないようになりました。(卒業自体ヒヤヒヤものだった)
こういった、学生時代の私を形成し、今に繋がる一つの要素になった本であると思っています。
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