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2010/09/30

学生の就職の大手指向

昨日、「朝ズバ」 で学生の就職の大手指向について、批難する調子の報道(?)をしていた。みのもんたがいつものごとく頓珍漢なコメントをしていた。
彼らは中小企業によくあることについて良くわかっていない。安定性とか賃金レベル以前の問題を持つ所が多いのだ。
働く上で一番の基礎になる労働法を遵守しないことが普通にあるのだ。ベーシックなルールが守れない所に入りたいと思うかね?

そういう所は、罰則が軽微な法令違反については、全般に軽視する社風(というよりオーナー経営者が)がある。一時が万事なのだ。もっとも大手ですらありえることなのだが。
こういう不安感があるんだ。それは、中小企業に勤める親が一番良く分かっている。中小企業と付き合いのある大手に勤める親も分かっている。だから子供に大手や公務員への就職を勧めるのだ。
公明正大、情報開示が保証されている会社なら小さくても入るはず。
だけど、どの小企業がきちんとしているのか、ってことが分からないわけ。難儀なことだ。

人が採れなくて困っておられる中小企業の経営者の方、こういう点をクリアすれば解決できる
わけですよ。もちろん、そういう動きをとって、さらに一生懸命アピールしていかないといけないわけですけど。
でもね、私、就職情報誌の創刊メンバー(編集制作系)という経験も踏まえて申し上げますが、積極的に動かれている企業の採用広告からは、伝わるものがあるんです。
何故か分かりますか?
広告制作をする制作担当が感心して作るからです。表現を考える人の感動が表現には現れるんです。
いい加減な会社の広告には、どうしたって臭いがするんです。

伝わるんですよ。

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2010/09/29

巨大な積乱雲

夏休みの終わり、8/27、28と兵庫県との県境に近い京都府の久美浜へ家族で海水浴に出かけた。なぜ久美浜かというと会員権を持っているリゾートトラストのホテルがあるからだ。27日楽しく海水浴をしてホテルに入るとホテルから南東方向に巨大な積乱雲が見えた。これほど巨大なのは人生初だと思う。このときNHKのニュースを見ていたのだが、京都府に竜巻警報が発令された。この積乱雲の下に違いない。こういうのの近くには絶対に居たくないものだ。

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2010/09/27

運動会

昨日は、長男(小5)と次男(小2)の運動会でした。
最初は曇っていて、涼しく具合良かったのですが、後半日差し強し。

開会式
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2010/09/24

GPOD

 私が立ち上げた場所の名前である。

 私は、IMIの2期生なのであるけども、IMIが催行した1997年の夏の終わりに20世紀最後のドキュメンタを見学ツアーに参加した。ドイツ、オーストリア、オランダのアートに関係する場所を巡る旅でありました。アルスエレクトロニカにも行った。岩井俊雄さんと坂本龍一さんにアルスエレクトロニカで会って、少し話をしたりもした。ポケモンカードを沢山持っていって、アート関係者に配ったりもした。(もちろん好評だった)
 いろいろ影響を受けるものを見聞したわけなんだけども、アートに関係する人達が集まれる場を作りたいなと思って、当時役員をしていた会社(株式会社スターコーポレーション)の使っていない古い社宅アパート(会社に隣接していた)を利用することを思いついて、開設した。
使っていないアパートは保安上も問題があり、人が出入りすることは保安上もメリットがあるということで、会社の同意を取り付けた。もちろん、私がポケットモンスターカードゲームの流通事業を立ち上げて、大ヒットとなったことで、社内での発言力が大きかったからでもある。

 場所は、松屋町の端。空堀商店街の近く、上町台地へと上がる坂の途中である。IMIの仲間が中心に運営の仕組みが作られ、利用が広がり、面白い場所へと変化していったと思う。GPODという名前も現代アート関係の人達で知る人も少なくはないと思う。
 私が、会社を辞める際に閉じるということになりかけたのだが、会社が保安上のメリットを感じて、その後も存続することになった。私が関与しなくなってから2年後くらいまでは使えたと記憶している。会社は、なんとなく閉じるということにした様だが、GPODを廃止して、その後無人化することでまた保安上の問題は生じ始めたようだった。具体的に取り壊しての利用案が出るまでは、単に継続するだけで、会社のステータス向上にもつながらないではないものだったと思うが、その意味を理解できる人は残念ながら居ないわけだった。
 利用していた諸君ももうちょっとうまく動いて、会社にメリットを感じさせていれば、存続できたと思うけども、まあ、継続するということのために行動はしなくても良いかも。

GPODを使ったことのある人がこの記事を観たら、近況など知らせてもらえれば嬉しい。嬉しいというより やあやあどうしている って感じなだけだど。

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2010/09/19

ジョン・バーカー

私が、高校の山岳部だった1970年代末、なんと高校の山岳部では,高体連のお達しで冬山と岩登りが禁止されてました。なので、ぜんぜんこの領域にはタッチしていなかった。というのはタテマエで、もちろん、こそっとらしいことはしていたのでありました。

高校3年生でも夏山合宿に行く私でありますので、当然大学には落っこちます。勉強に明け暮れた(?)1年の浪人生活の後、地元の駅弁大学になんとか合格しました。大学に入ったら、がっつり山に登ってやろうと思ってました。なんだけど山以外にもフィールド系の遊びをいろいろやってみたいと思ってました。そこで、大学では山岳部に入らずに探検部に入ったわけです。

1980年衝撃が訪れます。
大学に合格する直前の1月のことであります。この当時山登りをやっていた人、特に岩系の人はご記憶だと思うけども、今は亡きクライミング専門誌「岩と雪」の1月発売号。ジョン・バーカーのヨセミテでのボルダリングの写真が掲載されたわけです。

凄すぎましたね。

※ジョン・バーカーは、2009年7月、フリーソロ中に墜死。フリーソロなので誰も事故の状況を目撃してない。彼らしい、というんですかね。youtubeで検索すれば彼の動画いっぱい出てきます。一度見てみましょう。

しかし、まったくカルチャーショック以外の何物でもなかった。

関東では、この直後の夏から、いまじゃメジャーだけど、当時無名の「小川山」ヨセミテ風岩峰群が突然脚光を浴びてルートがえらい勢いで開拓されていくのを、関西人の私は山の雑誌で見てました。兵庫県在住の私には、ゲレンデというと、雪彦であり、六甲山であります。まあ、元々エイドクライミングのルートでもないので、画期的なフリー化というのはなかった様に思います。
フリークライミングという言葉が出てきて、既存の人工ルートをフリー化していくのが盛んになりました。当時、本チャンルートと言ってもⅣ級A1で誰でも同じように攀れちゃうという「閉塞感」がクライミングの現場にはあったと思いますが、フリー化で一気に活性化したと思います。

一ノ倉の有名な人工ルート2本がフリー化されたのは衝撃でしたね。これは、同時代の方々共通にご記憶でしょう。

「コップ状岩壁・雲表ルート」のは、ハング帯にハーケンを打つ場所がなくて、この突破に手製の埋め込みボルト(日本で初めて)を使って登攀したという独創的なラインの歴史的ルートです。それをフリーでというのは本当にインパクトありました。

「滝沢下部ダイレクト」も、昔々の因縁が盛りだくさんという有名な垂壁ですから、これのフリー化も衝撃的。
まあ衝撃的だっただけで、その衝撃で私がフリークライミングを始めるなんてことはなかったわけなんですけども。谷川岳とか関西人の私には馴染みのない遠い場所だし、クラッククライミングなんて痛そうだし(~_~;)

ただ、ヒマラヤ8000mとかを目指す以外に、フリーとかアルパインスタイルとかという幅広い選択肢が出てきて、登山の現場は非常に刺激的な状況になりました。私はどれも目指していたわけではないのがアレですけど。一般ルートでレジャー登山をしてただけだし、冬はスキーばっかりやってました。でそのうちヨットレースを始めちゃいました。そして、社会人になって、山に登らなくなりました。

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妻の誕生日

16日は妻の誕生日だったのだが、仕事があり、帰宅も遅くなるのが分かっていた。翌日の17日はオフにしてあったので、この日の夕食は私が作り、一日遅れの誕生日会にすることにした。

ここ数年、妻の誕生日は私が料理を作っている。外食も良いけど、こっちのほうが私の価値観には合うのだ。

料理は、何故か長男が大好物の「お父さんの作る煮込みハンバーグ」これは、家族全員に評判の良い料理。夕方に買い物に行き、1時間少々で完成。
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今回の付け合せは、非常に良くできて旨い。
ブロッコリーの茹で具合は最高。コーンは缶詰なのだが、缶詰に入っている汁(この汁が美味しい)ごと加熱して煮詰めて、最後にバターを入れてある。

ケーキはすごい可愛いのがあった。
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立派な菊の花の様なデコレーション。
中は、二段にイチゴのスライスが入っている。クリームがもう少し甘い方が良いと思う。味が薄いとクリームの油っぽさが顔を出すのだ。もちろん使う生クリームと温度次第かもしれないけど。
だが、このケーキは全員にすごく好評だった。

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2010/09/15

バックパック

何を使っているのですか? というお問い合わせを受けました。
アップしてある画像を見ても分からないのは当然です。かなり古いミレーなので。
メスナーが8000m無酸素に取り組んでいた70年代末に、彼が使っていたものの市販モデルなのであります。オランというモデルです。どっかの山の名前だと思います。1977年当時でなんと定価28000円でありました。非常に高価な代物でした。もちろん3割引くらいの販売価格だったように記憶してますが、それでも高価です。当時年末は、正月の睨み鯛を焼くアルバイトを魚屋さんでしていたのですが、その五日分のアルバイト代を全額注ぐ必要がありました。当時大阪の梅新の交差点近くにあったロッジで買いました。買ったのは1977年正月。高校一年生でした。33年も前のものですが、未だに使えます。シンプル故のことでしょう。昔のパックなので、ヒップベルトはありますが、主に肩で担ぐものです。
もちろん、33年間使い続けていたわけではなく、私が社会人になって、山には行かなくなり20代後半から10年ほど、物置で眠っていました。阪神淡路大震災の後、非常持ち出し用品をいれて非常用として、やはり10年ほど物置で眠っていました。3年前から登山を再開した時に、お金も無いので新しいバックパックを買わずに登山用に復帰させました。まあ慣れているから良いですが、最新のものと比べれば性能はお話にはならないと思います。まあでも、まだ20キロくらいなら担いで雪の上をクランポン履いて歩けたので、セーフでしょう。とは言え、装備の最新化の欲がないわけではありません。お金が無いだけ(^_^;)

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