ジョン・バーカー
私が、高校の山岳部だった1970年代末、なんと高校の山岳部では,高体連のお達しで冬山と岩登りが禁止されてました。なので、ぜんぜんこの領域にはタッチしていなかった。というのはタテマエで、もちろん、こそっとらしいことはしていたのでありました。
高校3年生でも夏山合宿に行く私でありますので、当然大学には落っこちます。勉強に明け暮れた(?)1年の浪人生活の後、地元の駅弁大学になんとか合格しました。大学に入ったら、がっつり山に登ってやろうと思ってました。なんだけど山以外にもフィールド系の遊びをいろいろやってみたいと思ってました。そこで、大学では山岳部に入らずに探検部に入ったわけです。
1980年衝撃が訪れます。
大学に合格する直前の1月のことであります。この当時山登りをやっていた人、特に岩系の人はご記憶だと思うけども、今は亡きクライミング専門誌「岩と雪」の1月発売号。ジョン・バーカーのヨセミテでのボルダリングの写真が掲載されたわけです。
凄すぎましたね。
※ジョン・バーカーは、2009年7月、フリーソロ中に墜死。フリーソロなので誰も事故の状況を目撃してない。彼らしい、というんですかね。youtubeで検索すれば彼の動画いっぱい出てきます。一度見てみましょう。
しかし、まったくカルチャーショック以外の何物でもなかった。
関東では、この直後の夏から、いまじゃメジャーだけど、当時無名の「小川山」ヨセミテ風岩峰群が突然脚光を浴びてルートがえらい勢いで開拓されていくのを、関西人の私は山の雑誌で見てました。兵庫県在住の私には、ゲレンデというと、雪彦であり、六甲山であります。まあ、元々エイドクライミングのルートでもないので、画期的なフリー化というのはなかった様に思います。
フリークライミングという言葉が出てきて、既存の人工ルートをフリー化していくのが盛んになりました。当時、本チャンルートと言ってもⅣ級A1で誰でも同じように攀れちゃうという「閉塞感」がクライミングの現場にはあったと思いますが、フリー化で一気に活性化したと思います。
一ノ倉の有名な人工ルート2本がフリー化されたのは衝撃でしたね。これは、同時代の方々共通にご記憶でしょう。
「コップ状岩壁・雲表ルート」のは、ハング帯にハーケンを打つ場所がなくて、この突破に手製の埋め込みボルト(日本で初めて)を使って登攀したという独創的なラインの歴史的ルートです。それをフリーでというのは本当にインパクトありました。
「滝沢下部ダイレクト」も、昔々の因縁が盛りだくさんという有名な垂壁ですから、これのフリー化も衝撃的。
まあ衝撃的だっただけで、その衝撃で私がフリークライミングを始めるなんてことはなかったわけなんですけども。谷川岳とか関西人の私には馴染みのない遠い場所だし、クラッククライミングなんて痛そうだし(~_~;)
ただ、ヒマラヤ8000mとかを目指す以外に、フリーとかアルパインスタイルとかという幅広い選択肢が出てきて、登山の現場は非常に刺激的な状況になりました。私はどれも目指していたわけではないのがアレですけど。一般ルートでレジャー登山をしてただけだし、冬はスキーばっかりやってました。でそのうちヨットレースを始めちゃいました。そして、社会人になって、山に登らなくなりました。
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